最近、区民プールに通うようになった。
俺はつい数週間前までは泳ぐのが苦手だった。
小学生の頃から、限りなく意識不明に近いプールといった感じで、カナヅチという程ではないが「溺れてもがいていたら気付くと25メートル先にたどり着いていた。あと少し遅れたら死んでいただろう」という往復しているのはプールなのか三途の川なのかよく分からない状態だった。プールなど近づきたくもなかった。
しかし、「ロバート秋山の市民プール万歳」で秋山が市民プールに行ってから消費カロリーより明らかに高いカロリーの焼きそば大盛りを摂取しているのを見て「俺も泳げるようになりたいし焼きそばを食いたい」と思うようになった。あと焼きそばも食いたかった。
ふと考えてみると、アル中だった祖父が健康だった頃はプールで1キロ泳いでいたのだ。頑張ってみよう。
区民プールは安い。1時間200円。水着の他には何も要らない。入会金も年会費も要らない。区民であれば利用できる。
区民(税)が生み出した福祉の極みだよ。
一方で金持ちはコナミスポーツクラブに金をぶち込むだろうが、どうせ多くの人たちは金を払うと満足し、めんどくさくなって通わなくなり、しかし辞めたら行かなくなると思って辞めどきもわからず養分になる(昔俺も似たようなことになった)。みんなの怠惰が一つになってコナミスポーツクラブはどんどんでかくなっていく。それもいい。俺は血税を取り返す旅を続ける。ところでTSUTAYAの延滞金が定価を超えて何十倍も高くなるの、SF(すこしふしぎ)だと思ったことはないかな?
プールは温水だから今の時期でも心地よいのだが、冬に泳ぎたい人などいないのか大抵は空いている。
最初はちょっとしんどかった。横のレーンですいすい泳ぐ人とか、監視員の目が気になった。
Youtubeで正しい泳ぎ方とか見ても、「そもそも苦しくてそんなこと考えてる余裕ないんだっての」と思った。
だが数回通って溺れていると、なんだか息継ぎが楽になってきた。溺れ方も様になってきたようだ。休憩を挟みながら1時間に泳げる時間も延びていった。いつの間にか溺れなくなった。水を得たドラゴンだ。(初めて来た人へ。俺は30歳だが訳あって自分のことをドラゴンと呼んでいる。厳しいと思うが、慣れて欲しい)
まだまだ泳ぐのは遅いが、人と比べる必要などないと分かった。
なぜなら水の中は孤独だからだ。
静かで、誰にも邪魔されず自由でなんというか救われる。
独りで静かで豊かで…
だるい仕事帰り、Amazonで2千円で揃えた水着とゴーグルとキャップを装着し、水の中に入った瞬間、外界から隔絶されたような感覚になる。聴覚だけでなく触覚も全て水に塞がれる。見える範囲も狭い。重力も弱い。呼吸も自由にはできない。さながら宇宙空間のようだ。貧者のVRだ。
さっきまでいたヨボヨボのジジイも、むちゃくちゃ水飛沫をあげるムキムキのおっさんも、脱衣所で香水を歌っていた若者も、めっちゃ厳しい上司も、続けたくない日々も、苦しいだけの思い出も、水に入れば泡とともに消える。俺はリトルマーメイドだ。いや俺は違うか。
ふと前方に目をやると時空の亀裂があった。それは黒く落ち窪んだ穴のようなもので、俺は即吸い込まれた。
気がつくと俺はプールサイドにいた。しかし、先ほどとは少し景色が違う。そうだ、これは祖父が泳いでいた地元のプールだ。たぶんさっき祖父の話をしたからだろう。「時空の亀裂に吸い込まれたのでたぶん過去か未来だろうなー」と思って掲示板を見たら20年以上前だった。
実家に行くと俺が受験勉強をしていた。正確に言うと机に向かってゲームボーイアドバンスで遊んでいた。「未来の俺だ」と言うと信用してくれた。「このままだとお前は受験に落ちるぞ」と伝えると「そんな気がしていた」と悲しそうな顔をした。
その時急に、「そういえば昔、未来の俺にこうして会ったな」という気がしてきた。
俺は自分に勉強を教えた。受験の時にもっと早く知っていたらと後悔した参考書も教えた。試験の問題は忘れていたし、実力で受からないと自分のためにならないと思った。あと、もう少し初対面の人と喋る練習をした方が良いと伝えた。腹筋ローラーも買った方が良い。アップルの株も買っておけ。
1時間経つと俺の体は透明になってきた。「じゃあな、頑張れよ」と言うと「1時間程度の知識で未来が変わるとは思えないな」と言われた。我ながら俺らしいぜ、と思った瞬間、視界が消えた。
元いた場所に帰れるものと思っていたが違ったようだ。俺は星ひとつない真っ暗な宇宙を漂っていた。
すぐに話しかけてくる声があった。テンポが良い。
「何が起きたか説明しましょう」
俺は「よろしくお願いします」と答えた。
あなたは過去に戻り自分自身に勉強を教えましたね。しかしその時、人生は誤差程度にしか変わりませんでした。受験に再度失敗したあなたは、少しだけマシになった頭でまた過去に戻り、勉強を教えることになります。前よりもあなたは教えるのが上手くなりました。さらに過去に戻り、さらに有能になったあなたはより良いアドバイスをします。100回繰り返したあたりで、あなたは受験に合格しました。
僕は一度しか過去に戻っていませんよ。
しかしその一度はループされるのです。過去の自分も同じ時代に来ればまた過去に戻るのですから。あなたが過去に戻った一瞬で、あなたの人生は多重に修正されました。
人生のフィードバックループってことですか。
どちらかというとPDCAサイクルですかね。過去の受験生のあなたは変わりませんが、その成長曲線だけがどんどん改善されていくのです。
あなたは前よりも良い大学に進みました。
あなたは前よりも良い仕事を見つけました。
あなたは前よりも良い恋人を見つけました。
あなたは前よりも良い友人を得ました。
あなたは前よりも「正しい道」を選びました。
効率改善、乱数調整。
そしてその循環は止まらなくなりました。あなたの意識の中では一瞬のことでしたが、既にそのループ回数は天文学的な値になっています。
まるでスピーカーのハウリングみたいだ。
あなたが途中で自分をアップデートすることをやめれば、この循環は止められたでしょう。しかしあなたはそれを望まなかった。あなたはより良い人生、もっと上の人生を望み続けたのです。
100万回目、あなたは大富豪になり区民プールの建つエリアを買い取りました。あなたは自分の脳の限界を取り払うため、過去のあなたの脳を外科手術しました。あなたは少しずつ人ではなくなっていきました。
100億回目であなたは人間の枠組みを完全に超えた存在になりました。
そしてある時、あなたは過去と現在と未来を行き来できる存在になりました。並行世界も見えるようになりました。時間と空間の距離はもはや意味を持たないのです。
クッキークリッカーみたいなインフレだ…
今のあなたは元々あったあなたの精神のほんの一部でしかありません。元のあなたの精神は既に神の領域、もはや宇宙そのものに達しました。ここにいるあなたはいわばその中に残されたわずかな人間の心です。そして私も、元あなたの一部です。あなたという人間に、この現象を伝えるために分化した、インターフェースのようなものです。
これ全部独り言ってことですか。じゃあタメ口でよくないですか。
本当は全てあなたも覚えているはずです。あなたは神になった瞬間、全能になったので。
僕はこれからどうすればいい?いや、どうなるんです?
あなたは何でもできます。意識が分離しているとはいえ、あなたは神の一部です。全ての事象を経験し、全てを得ました。あなたは自身が求める世界をあなたの中に創造しそこに住むことができます。なぜなら既にあなたはそれを経験しているからです。ただ、それを思い出すだけで良いのです。
あなたは酒池肉林の人生も、知的好奇心を満たす人生も、自己研鑽の人生も、人間ですらない生き方も経験しました。
今のあなたにとって、想像と創造は同一のものです。
あなたは何を、選びますか?
僕…俺は…
気がつくと俺はプールサイドに座っていた。監視員が休憩の笛を吹いている。俺はループが始まる前の、元の世界に戻っていた。
だがこれは正確には元の世界ではなく、俺が既に経験した記憶の一つでしかないのだろう。
それとも全ては妄想だったのだろうか?
それはわからない。
なぜ俺は何も変わらない世界を選んでしまったのだろう。
とにかく今は、すごく腹が減っていた。
焼きそばを食べたかった。
俺はシャワーを浴びた。隣で俺が神だなんて知りもしない青年が鼻歌混じりに着替えている。
焼きそばは美味い。
俺は口いっぱいに豚ねぎ焼きそば目玉焼きトッピングを頬張りながら考える。
満腹になってから、もっと良い人生を選ばなかったことを後悔するだろうか?
いや、俺は全てを知ったのだ。俺は宇宙で、その一部なのだ。ただ、全てを忘れただけだ。
マヨネーズをかける。
それに、それはもしかしたら生まれた時からそうだったのかもしれない。
七味もかけた。
だから大丈夫だと思う。
キウイスカッシュで流し込んで俺は会計をした。
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