親知らずを抜いた。右下の。
右上の親知らずはコロナの前に抜いていた。だから2年くらいは間が空いていたと思う。
右下の親知らずは「しめしめ、忘れてやがる。抜かれずに済んだ」と油断していたことだろう。俺をなめるな。
俺をなめるやつは全員許さない。
左の親知らずは上下まだ残っている。震えて眠れ。
中学の時に肩パンしてきた奴らのこともまだ忘れていない。全員地元から出られないように呪ってやった。それが不幸かはわからない。
俺の下の親知らずは難産(難殺?)だった。真横向きに生えていて、およそ歯としての機能を全く果たしていなかった。これまで何の役にも立たずにそこにあった歯は、何の役にも立つことなく破壊され、捨てられるのだ。手前の奥歯が虫歯になり易そうだからという理由で。可哀想だ。親も知らず、大人にもなれず、腐ったみかん扱いされて駆除される。だが歯に感情はない。ひと思いにやってください。生死は問わない。働かざる者食うべからず、俺だって働いているんだ。
手術はあまりに自然に始まった。しかしそれは例えるなら口の中でチェンソーマンが暴れているかのような恐ろしいものだった。
麻酔を打っているので感覚はない。しかし音が、耳から、骨振動から、伝わってくる。また舌も右半分に感覚がないため、工具に舌で触ってしまうのではないか、そしたら俺の舌は職人が捌くウナギのようにスパーンとなってしまうのではないか、またはデパートのエスカレーターに巻き込まれた子供のようにグゾョングゾョンになってしまうのではないか、終始恐ろしくて仕方がなかった。俺は必死に「プーとおとなになった僕」の冒頭、クリストファーロビンとプーの感動的なお別れのシーンを思い出して少しでもこの地獄のような現実から目を背けた。医者は「これは長くなりそうだ」と言った。
俺は唱える。
努力、未来、a beautiful star
努力、未来、a beautiful star
永遠にも思える時が過ぎ、永遠の悪魔を倒したらしく俺の歯の治療は終わった。うがいをしても、思ったほど血は出ていない。しかしこれは穴に詰められた秘密道具「永久スポンジ」のおかげであった。
永久スポンジは俺の口の中から、毎日永久に血を吐き出した。まるでスポンジそのものが、血を生産しているかのように。だがたしかにこれは俺の血であった。
俺はドライソケットを恐れた。
ドライソケットとは親知らずを抜いた時にうがいをし過ぎるとかさぶたが取れて顎の骨が丸見えになる現象である。死ぬほど痛いらしい。「死ぬほど痛かったよ」とバンドの知り合いに言われて俺は怯えていた。
毎日鏡を覗き込み、これは骨か?それとも永久スポンジか?と不安になっていた。
抜歯も終え、医者は大丈夫っすね、と言った。
俺の歯茎は空洞を残した。俺は空洞、でかい空洞。
未だに鶏胸肉がよく挟まるので困っている。
親がもうすぐ還暦になる。何かを買ってやらねばならんと思う。
しかし華々しい同級生とは違い、適当に働きのんびりしている俺にはなぜか貯金がない。たぶん俺の口座には俺の金を食べている泥棒ねずみがいる。
バンドも特に売れていない。金がなくてもバンドが売れていればそういうカテゴリになるだろうが俺のバンドは明らかに売れていない。だから俺は何者でもない。
だが親は子の健康を願うものなので、とりあえず還暦祝いには俺の筋トレの成果としてまた公園に行って懸垂しているところを見せてやればよいだろうと思っている。本当はそんなことでは良くないとわかっているが、じゃあ他に何をすればいいのかわかるやつは教えてほしい。いや、やめろ、何も言うな。
飲むのを我慢して、プロテインを買うのやめて、貯金して温泉付きホテルにでも泊めてやれ、と俺の良心は言う。
だが俺は親の優しさに甘えていたい。今年で34になる年にこんな情けない事を言っているおっさんになっているとは俺も学生時代には予想だにしていなかった。
しかし情けない生き方は非常に気楽である。自分と見つめ合う時間を取らなければこんなに気楽なことはない。俺は家じゅうの鏡を撤廃することにした。
お願いだから大谷とかそういう若くて立派で収入の高い人と俺を学術的に別の生物として分類してほしい。そうすれば自分という人間について省みる必要などないだろう。
誰に向かってこんなことを言っているのかわからない。まだ親知らずは2本残っている。治療費は数千円かかる。保険料を少しでも取り返すために抜いてやろうという気持ちともう数千円払いたくないという気持ちがある。親の知らないところで俺は親知らずを抜くかどうか迷っている。
そんな折、奇しくも情けない息子が親に頼る曲の音源ができた。聴いてほしいと思う。itunesや各種サブスクで聴けるはずである。
俺はEmily likes tennisというバンドでドラムをやっている者だ。
俺はドラムの録音だけでなく、ミックス作業なども頑張った。ミックスというのはみんなが録音した音源のタイミング調整とか音の聞こえ具合とかそういうのを調整する非常に大事なお仕事である。仕上げはヤミニさんに託したが、「普段後ろの方にいるあいつ(俺)も結構バンドの役に立っているんだなあ」ということをこういうところでくらい知ってもらっておきたいものである。
以上だ。